アメリカ(サンディエゴ・フリーウェイを南へ)(2001/4/29⇒5/11) |
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「誰がために鐘はなる」という浜田省吾さんのアルバムの最後に「夏の終わり」という曲があります。 「サンディエゴフリーウェイを南へ走ってる・・・」というフレーズで始まるこの曲を聴く度に、自分も彼と同じようにこの道を車で走ってみたいという想いに駆られてきました。その想いを実現させようと2001年の春、ゴールデンウィーク休暇を無理やり1週間延長して、アメリカを一人で旅してきました。その旅の記録です。
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わしらも怪しい探検隊(1991/8/13⇒8/14) |
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知る人ぞ知る、椎名誠の「わしらは怪しい探検隊」。突発的に意味も無く離れ小島に出かけ、天幕を張って焚き火をして南南西の空に吠えるという行為を繰り返す(らしい)「東日本何でもケトばす会(東ケト会)」の初期の行いを綴った名著であります。この行いにひどく感動した25歳のわたくしが高校時代の仲間約5名とともに、須磨海岸などを横目で「ケッ」と睨みながら、兵庫県は淡路島の南東約10kmに位置する「沼島」で野営生活を送った、その記録であります。今では連絡がつかなくなってしまった当時の隊長Yよ、このページを見ていたらメールをくれい。
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敦煌で砂にまみれる(2001/8/11⇒8/16) |
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敦煌(現地ではトゥンファアと発音する)で地平線を眺めてきた。ホントは玉門関に憧れて旅立ったのだが、着いてみると観光名所化していて少し悲しかった。そばには観光客向け施設まで出来ており、動力用の太陽電池が並んでいるのには驚いた。
とはいえ、まだまだ人の手が入っていない風景はいくらでもあった。例えば、日本ではほとんどお眼にかかれない地平線だ。空と大地とその境界以外、何も見えないというのは闇にも似た風景だと思うが、昔の人はその闇の向こうに何を信じて旅立ったのだろう。
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深夜鈍行(2001/12/28⇒2002/1/5) |
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日本の正月にはいい加減飽きたので、マレー半島をバンコクからシンガポールまで列車やバスや船を乗り継いで旅してきた。多分このタイトルを冠したWebページはたくさんあるだろうなぁ・・・。「深夜・・・」というよりは、「昼下がりの阪神西大阪線各駅停車(尼崎<->西九条)」という感じの旅なのだが、それでは訳がわからなくなるので、このタイトルとした。(写真はマレー鉄道の始発点、バンコクのファランポーン駅)。
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エールの気まぐれな空を見上げて(2002/4/25⇒2002/5/11) |
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ゴールデンウィークを迎えて航空券がバカ高くなる直前に、18連休をとって西に向かった。目指す先はとりあえず北アイルランド・ベルファスト。明確に何かがしたいという訳ではないが、何となくアルスターの空が見たくなった。高村薫の影響かも知れない。 アイルランドの空は気まぐれだ。まるで台風のような暴風雨になったかと思えば、いつの間にやら陽の差す穏やかな春模様になっている。つまるところ、これがアルスターの空というやつなのだろう。雨が降っているからといって悲しんではいけないし、晴れているからといって油断してもいけない。 そんなエールの空をギネスと一緒に見上げながら、その先は思いつきで決めたフランクフルトFHまで、クルマ、船、列車を乗り継いで適当に旅してきた。
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歓迎光臨(2002/8/14⇒2002/8/17) |
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かつては魔都と呼ばれた上海も、今はアジア有数の近代都市へと変貌を遂げつつある。今回は旅程も短く、おまけに大雨に祟られてあまり見てはまわれなかったのだが、それでも全体的に昭和30年の日本に2000年のテクノロジーとファッションを突っ込んだ感じの街は、怪しい魅力でいっぱいだった。 |
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インドシナ(2002/12/21⇒2003/1/6) |
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バンコクをゲートウェイにインドシナ3国(ベトナム、ラオス、カンボジア)を旅してきた。移動はすべて陸路、水路をとり、国境はほぼ全て歩いて超えた(友好橋では国境バス)。さすがにマレー3国に比べて簡単にはいかない場面も多かったが、その分通り抜けてきた感慨も大きい。
写真は夜明けのアンコールワット。静けさの中で徐々に勢いを増してゆく陽射しと、その中に浮かぶ中央尖塔のシルエット。これもまた忘れられない風景のひとつになるだろう。
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インド熱力学(2003/4/26⇒2003/5/4) |
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ついにバックパッカーの通過儀礼ポイント、インド・バナラシに行ってきた。正直に言うと私は1週間で帰国してしまうような気の抜けたリーマンパッカーなのだが、ええいこの際コマかいことはどうでもいいのだ。
バナラシはやっぱりスゴかった。暑気の真っ只中でくそ暑いのは割り引いてもスゴかった。打ち倒しても打ち倒しても目の前に立ちはだかるエコノミック・インド人。人間の都合などお構いなしに、のんびり道路に横たわるノラ牛。死体を焼く紅蓮の炎がごうごうと燃え盛るマニカルニカ・ガート。どれもとっても日本の常識など微塵も通用しない、インド熱力学に支配された世界。
その世界を垣間見る、わずかな風景を切り取ってきました。
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天上航路(2004/4/24⇒2004/5/9) |
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チベットの空は青い。空気が澄んでるからなのか、それともホントに天が近いからなのか。とにかく今まで見てきたどの空よりも青い空だ。旅をしながらそう感じた。
森林限界超えてしまっているせいで、眺める山には木はなく、走る高原には森もなく、眼に入るものといえばひたすら黄色い大地と青い空。その高原を渡る風と、そいつに煽られてはためく五色のタルチョ。ここじゃあ、きっと風が神様なんだろうな。こんな風景を眺めながら、ふとそう思った。
そんなところを時には感動の声をあげながら、また時には高山病の症状に怯えながら、チャーターしたポンコツランクルで、ラサからカトマンズまで中尼公路を走破してきました。
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海上アルプス(2004/11/20⇒2004/11/23) |
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世界遺産の島、屋久島に行ってきた。この島に行くのは初めてではなく、30年振りの再訪である。
豊かな自然で知られる屋久島だが、およそ6千年前にこの島のあらゆる動植物は一旦絶滅したと考えられている。この島のすぐ隣にあった火山島が大爆発を起こして、その火砕流で全てが焼き尽くされたのだ。この噴火跡は「鬼界カルデラ」として、屋久島の北北西50キロに存在が確認されている。その一部は今なお薩摩硫黄島として活動を続けている。
だからこの島の自然の美しさは、実は単なる自然美ではなく破壊と再生の象徴なのだ。ある調査によればこの島の固有種である「ヤクザル」の遺伝子を調べたところ、その祖先はたった一つの母系にたどり着くという。大災害の後、流木に乗ってこの島に流れ着き、繁栄したらしい。林道の道端で毛づくろいしているサルに駆け寄り、「よくがんばった!」と抱きしめてやりたくなるような話である。
話が地学がらみになると特に気持ちが入ってしまうが、単純に森を歩くだけでも驚きと発見に満ちた島であることもまた間違いない。ホントに森の精ってやつがいるんじゃないか、そんな気にさせる原生林を、足が痛くなるほど歩き回ってきた。
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北風に追われ・・・(2004/12/25⇒2005/1/8) |
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アンダマン諸島で泳ぐ象を見るのがテーマの旅だったが、年末に起きた地震と津波の影響でアンダマンには行けなかった。何せそこはほとんど震源地なので被害も甚大で、タイミングが少しでもずれていれば僕も間違いなく巻き込まれていただろう。
地震発生時点で僕は現地の一歩手前のチェンナイにいた。あまりの事態に帰るべきかどうか迷った。だがそれは少し違うような気がして、旅を続けることにした。まずは周囲の状況を見つつとりあえず北上、アウランガバードの遺跡群を見てから南下、ケーララの水郷地帯(バックウォーター)を旅してきた。
でもいつかきっともとの美しさを取り戻したアンダマンに行って、泳ぐ象をこの眼で見たい。とりあえずそれまでは、旅を続けたいと思う。
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パタゴニア(2005/12/23⇒2006/1/8) |
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遠くへ行きたい。そんな旅人の共通の願いを最大限に叶えてくれる場所がパタゴニアだ。なんと言っても南極でさえ、この場所よりは近いのだ。ここより遠いところは、もはや宇宙空間にしか存在しない。
思えば僕も子供の頃から、遠くへ行きたいといつも夢見ていた。夢というものは叶える為にあるものだと最近になってようやく気づいた私は、またまた正月休みを無理やり延長し、その夢を叶えてくれる土地に旅立った。そこは荒涼とした風景の中にも奇跡のように美しい風景が散らばる、まさに夢のような場所だった。
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天空の城(2006/4/28⇒2006/5/6) |
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いつかは、マチュピチュ。そう思って旅を続けてきた。初めてマチュピチュを目にしたのは何時、何処だっただろうか。もう忘れてしまったが、険しい山の頂に忽然と姿をあらわすその風景に魅せられた僕は、その日以来「いつかは、マチュピチュ」になってしまったのだ。 今まででも行こうと思えば行けたのかも知れない。だが簡単に行くのは恐れ多いというか、何となくそんな感じがしていたのだ。そんな想いを宿したまま僕は幾度かの旅を繰り返し、時は2006年、期は熟した。
自宅のドアを出てからおよそ80時間、長旅を終えて最後の曲がりくねった山道をしばし登ると、目の前にマチュピチュが不意に姿を現した。憧れの空中都市は、静かに雨の中に煙っていた。
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次行きたいところアンダマン諸島で、泳ぐ象を見る!パジェロを駆って、オーストラリアの砂漠を疾走。アフリカ上陸。いつかは、マチュピチュ・・・ |