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紅い指輪
aiwa
ルドルフ・シュミットは土壌サンプルの分析を終え、結果をサーバに保存して、短いため息を一つついた。そろそろ時間だ。データの解析は地上の同僚に任せ、今日は寝ることにしよう。彼は軽く地面を蹴り、その勢いでエア・ロックをくぐって居住ブロックに入った。ここに来てすぐは地球の六分の一というあいまいな重力に慣れることができず、移動するのも一苦労だった。それがいまではかえってそれが心地いいくらいに感じるのだから不思議なものだ。
居住ブロックの壁には小さな窓がついており、少し見上げるぐらいの角度で地球を見ることができる。他の隊員たちと同様に、ルドルフもここから故郷の星を見るのが好きだ。ある日この窓から地球を眺めていると、同僚のアメリカ人ジェフに、こんなことを言われたことがある。
「やあ、ルドルフ、今日の地球(She)はどうだい?」
「いや、やっぱり美しいですね。」
「それは地球がかな、それとも君の奥さんがかな。」
個室に飾ってある妻の写真を見られたおかげで愛妻家という評判を取ってしまい、彼は同僚たちに、特にあのジェフに絶好のジョークのネタを提供してしまったことを激しく後悔した。新婚早々の超々遠距離単身赴任者が、部屋に妻の写真を飾っただけで騒がれるのもどうかと思うが、困ったことに間違ったことを言われているわけではないので、そうそう怒る訳にもいかない。
同僚たちに冷やかされるたびに、そもそも新婚一年目にしてこんなところでくる日もくる日も顕微鏡を覗き込んでいるような男が愛妻家と呼べるのだろうかという、かすかな自責の念を感じることがある。しかし地上から自分を見上げているかもしれない妻のことを思うと、自分がここにいることにも、それなりに意味はあるのかも知れないと思うのだ。何しろここは、彼女にとっては希望の星なのだから。
ルドルフの愛妻、マティーネ・シュミットは一日一回は月を見上げるのが日課だ。その場所と時間は、月の公転にあわせて変わっていく。朝、オフィスに向かう道から見上げる月、夕焼けの中に金星と並んで輝く三日月、そして夜空に輝く満月。見えるはずがないとわかっていながらも、月の姿が目に入ると思わずルドルフに向かって手を振りたくなってしまう、そんな日々をこのベルリンの街で数えてもう半年になる。
彼女には、月には忘れられない思い出がある。ギムナジウムの2年生だった時、ささいなことから親友とけんかをした時の話だ。学校が終わっても家に戻る気になれず、かといってどこか他所に行くところもなく、仕方が無いので日没を過ぎても近くの川縁に寝転んで月を見上げていた。きれいな満月だった。
最初のうちは昼間に起こったこと、そして友達のことをあれこれと考えた。だが自分がそうやっていろいろと思い悩んでいるというのに、月の表情はいつもと少しも変わらない。そんな月を見ているとそのうち自分がひどく小さな人間に思えてきて、細かいことを考えるのが嫌になった。まあいいや、あの娘にはあの娘なりの事情があったんだし、家のみんなも心配しているかも知れないし、そろそろ帰ろうかな、でももうちょっとこうしてお月様を眺めていようかな。そんなことを考えていると、不意に近くで人の気配がした。
彼女は驚いて立ち上がろうとした。が、少しクセのある足音ですぐに父だとわかり、安心した彼女は、気がつかなかったフリをしてそのまま月を眺めていることにした。父親の方もいきなり話しかることはせず、何も言わずに黙って彼女に並んで川縁に寝ころがった。それからしばらく、川を流れる水の音と、草をそよがせる風の音だけが聞こえる穏やかな時間が過ぎた後、父親がこんな言葉をつぶやいた。
「太陽は明るいときにしか輝いてくれないが、月は闇を照らしてくれる。だから父さんは、月が好きだな。」
まだ子供だった彼女には、この言葉の意味がよく分からなかった。だがそこにはどこか彼女の心に響くものがあったのだろう。それからずっと彼女の心に残り、生涯忘れられぬ言葉となった。それから数年の時が過ぎ、彼女が大学に合格して家を出る日の夜、ずっと心の隅に引っかかっていたこの言葉の意味を、思い切って父親に尋ねた。返事は口調こそ穏やかだったが、その内容は彼女の想像を絶するものだった。彼女は自分が知らないことの多さを思い知ることになった。
彼女の父親は旧東ドイツからの亡命者だ。東ベルリンで教師をしていた彼は、ささいな理由で西側のスパイの疑いをかけられ、国家秘密警察、いわゆる「シュタージ」の取り調べを受けた。そこで彼は見逃してやる交換条件だと言って、同僚の監視を命じられた。「社会主義の優等生」と言われた旧東ドイツの社会も、一皮むけば、シュタージの密告制度によってなりたっていたというのが実状だ。こんなところで教師をやっている愚かさに耐えかねた彼は、1980年の夏も終わろうかというある日、親しかった友人といっしょに、壁を越えて西へ亡命することを決心した。
実はベルリンの壁といっても、全部が全部コンクリートの硬い壁で出来ている訳ではない。西ベルリンとの国境にはシュプレー川という割と広めの川が流れており、この川の中央にある国境線には鉄の柵が延々と続いているのだ。
二人は陸上の壁を越えるよりもこちらの方が警備が手薄だと判断して、その柵を越えて西に脱出することにした。二人はなるべく人目につかぬよう、月のない日の夜を待ち、シュプレー川に入った。夏とはいえ、水は冷たい。なるべく波紋を立てぬよう、静かに、静かに泳ぎ、どうにか見つからずに柵の袂に取り付くことができた。だが問題はこれからだ。辺りを見回すと、左右どちらの方角にも柵は途切れることなく、えんえんと設置されている。
彼は肩にかけていたロープを下ろし、一方の端をしっかりと握るとその束を柵の向こう側に放り投げた。ロープは西側の水面に小さな音をたてて落ち、それが彼らにとってはまるで雷鳴のように大きく感じられて肝を冷やした。それから二人は柵の間から必死になってロープの端を手繰り寄せ、柵に縛り付けて固定した。ロープは流れに揺られてゆらゆらと動き、捕まえるのに予想以上に時間がかかってしまった。ぐずぐずしている時間はない。彼らは少し話しあって、まず父が登ることになった。
彼は監視塔の方向を気にしながらロープを手繰って登りはじめた。だが足場は悪く、おまけにロープは水をしこたま吸っているので滑りやすく、何度も川に落ちそうになる。仕方が無いので友人に下から押してもらい、ようやく柵を登りきった頃にはかなりの時間がたってしまっていた。見つかるかもしれないという恐怖感は限界に達しつつあり、その緊張感と戦いながら、登ってくる友人の手をつかもうとしたその時、突然辺りをサーチライトが照らし、銃声が響いた。
友人の顔が歪み、何か叫びながら今登ってきた川面に沈んでいく。彼は反射的に西ベルリン側に飛び込み、必死になって泳いだ。その途中で右足に激痛が走った。だが彼は構わず泳ぎ続けた。振り返っている余裕は無かった。
対岸になんとかたどり着いた彼は、仰向けに寝転んだまま何もできずに、しばらく呆然としていた。気がつくと、いつのまにか昇ってきた細い月が、彼の顔を照らしていた。そこで彼ははじめて我にかえり、その月を見て泣いたという。
2年前、ルドルフから月面駐在科学者の最終選考に残ったことを打ち明けられたとき、マレーネはなんだか不思議な気持ちになった。自分が、そして父が見上げていたあの月に、この人は行こうというのだ。彼女だって、もう50年も前に人類はすでに月を歩いたということぐらいは知っている。地球軌道上に宇宙ステーションが建設され、シャトルが頻繁に往復しているということも知っている。しかしそれと自分の身近な人、しかも愛する人が行くということは別だ。マティーネは自分の気持ちを説明するために、父のことを話すと、ルドルフは神妙な顔つきになってこう言った。
「僕もその言葉は知ってるよ。確かアインシュタインの言葉だったかな。いい言葉だよねえ。」
「今でもつらいことがあると月を見あげて、この言葉を思い出すの。」
「じゃあ、これから暫くは、つらい事があると僕を見上げることになる訳だ。」
マレーネは少し考えてから笑って答えた。
「そうよ。だからルドルフ、がんばらなきゃ。」
それから二年があっという間に過ぎ、一年ほどして、二人は結婚の手続きをとった。ルドルフは訓練で時間が取れないし、もともと二人ともあまり形にこだわる方ではなかったので、式は挙げずに婚姻届を出すだけという、シンプルな形になった。
そして、2018年7月27日の夕刻。愛妻家にして月面鉱物学者のルドルフ・シュミット氏は、ある密かなたくらみをもって故郷の妻にヴィデオフォンのリンクを繋いだ。
「もしもし、僕だ。そこから月は見える?」
「よく見えるわよ。天気は申し分なし」
「そりゃあよかった。天気、心配だったんだ」
「今日は皆既月食よね。いまシュプレー森の方から上ってきたところ。あ、もう本影に入ってるわね。きれいな深紅色をしてるわ」
「そうかあ。わが故郷の山々に映える皆既月食か。さぞかし美しいだろうなあ」
「うん、とてもきれい。なんか幻想的な色ね」
「ところでさ、いま月から地球の方を見ると、どう見えると思う?」
「地球は青いんでしょう?」
「はっはっはっ。そう思うだろ。でも、今はこう見えるんだな」
ルドルフは望遠鏡の画像出力をプライベート・チャンネルに繋いだ。
「どう、ちゃんと見える?」
「うん、すごくきれい。でも本当にこれが地球なの? 」
「月蝕のときの太陽は月から見ると地球の影に隠れてしまうんだけど、太陽光の一部は地球の大気で散乱されて回り込むんで、赤い光だけは月に届くんだよ。夕焼けが赤いのと同じ理屈だな。だから月蝕のときそっちから月を見ると、赤黒くみえるわけ。で、地球の大気は月から見るとリング状に地球を縁取っているからね」
「今はこんなに遠くに離れてしまってるけど、地球に帰ったら君に素敵な指輪を買ってあげたいと思ってるんだ。指にするには少し大きすぎるかもしれないけど、それまではこのリングで我慢してくれないかなあ」
そこには、満天の星空を背景に、直径1万3千キロの真紅のリングが浮かびあがっていた。
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original version Jun.,10,1999
second version Mar.,8,2004