印象に残った本の感想ですやや理系ノンフィクションに偏っているような気もする・・・ |
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死都日本 石黒耀、講談社 | |
「喜界カルデラ」とか「姶良カルデラ」とか聞いただけで、訳もなく興奮してしまう(私のような)人間にはたまらない一冊。一読すると小松左京の大作「日本沈没」を彷彿させる内容だが、科学考証的には、こちらの方がよりハードである。印象について付け加えれば、何となく梅原克文のニオイもするし、描写される風景はコミックスの「ドラゴンヘッド」を思い起こさせもする。 とてもスケールの大きな話でそれだけでも感服するのだが、なんと言っても度肝を抜かれるのは噴火描写のリアリティだ。火山に対する豊富な知識を背景にテンポのよい文章力が合わさり、読み始めたらちょっとやそっとのことでは止まらない。迂闊にも午後10時ごろに読み始めた私などは読了する頃は夜明けも近く、その日の仕事中眠気と戦わねばならないという有様だった。このページをご覧の諸氏はそんな事態にならぬよう、休日の午前中から読み始められることをお勧めする。できるなら冒頭の部分は快晴で、中盤以降は荒天となるような日に読まれれば、雰囲気も出るものと思われる。 そういえば2002/10の日経サイエンスによれば、東海地震の前兆現象が増えており、更に南海・東南海地震と連動発生する可能性が強くなっているらしい。富士山噴火も連動する可能性が高いというから、この本に書かれた事態は限りなく現実に近いフィクションというわけだ。さて現実はどうなるか。 | |
未知なる地底高熱生物圏 トーマス・ゴールド、大月書店 | |
果たしてトンデモ本かと手にとった時は思ったが、中身を少し読んでみれば、実に真っ当な地球科学書であることがわかる。ただそこで主張されている内容は従来の常識を大きく覆すもので、センセーショナルであり、それゆえ非常に面白い。 ちょっと詳しく言うと、この本で主張されているのは石油生成に対する地球深層ガス説というものである。従来の学説では、古代生物の死骸が地層中に蓄積され、これが化学変化を起こして石油となったというものであった。私も確かに学校ではそう教わった覚えがある。しかしこの本の中で著者が主張するのは、石油はもともと地球という惑星が形成された時点でその材料に含まれていたとするもので、いろんな証拠からそれを証明している。私が読む限りでは、信憑性はかなり高いようである。 油田から石油を抜き取ったのにもかかわらず、石油が再充填されているかのような現象が多く見られること。やや専門的にはなるが、炭酸塩膠結物の炭素同位体比が地質時代的なスケールで一定していることや、採掘深度によって有意な変化が見られること。これらの証拠は科学論文として読んでも高い説得力をもっているように思われる。 そして更に驚くべきことには、地中のこうした炭化水素圏には地上を遥かに上回るスケールで生命圏が広がっており、そこそが生命の発祥の地であると作者は予言している。この生命圏は地表の酸素や太陽光など、一般的に生命に必須の条件と考えられている環境は不要であるので、月、火星などの他の天体でも普遍的に存在するというのだ。どうだ、コーフンするではないか。地球にはまだ我々の知らないことがたくさんあるのだ。 これが真実だとすると(私はそう思うが)これからのエネルギー開発の方向もいろいろと修正せざるを得なくなるだろう。日本でも10kmくらい掘れば石油が大量に出てくるかもしれない。太平洋側はプレートが沈み込んでいる都合上、地質的に不連続面を形成しているので難しいかも知れないが、佐渡島や壱岐島あたりならいけるのではないか。文部科学省の方あたり、どうですか。 | |
晴子情歌(上/下) 高村薫、新潮社 | |
高村薫が好きである。最初に読んだのは多分「照柿」だったように思う。あれは徹夜で読んだ。その後しばらくは、自分の頭も照柿色に染まってしまって困った。 この作品では、作風がかなり変わった。文体は変わらず高村薫なのだが、人が死なない、いや正しくは人が殺されないのだ。どこかで読んだ話では、作者は阪神大震災を経験して人が死ぬ話を書けなくなったそうだ。志の高い人である。一部では「ハードボイルド」的な扱いをされていた高村作品だが、今後はそうはいかなくなるだろう。そうなれば件の言葉に違和感を感じていた私にとっては、的を得たりといったところだが。 さて中身の方はそういう事情がある分、盛り上がりには欠ける。スリルとサスペンスというものには無縁である。憎しみと暴力に代わって、作者が激しい生のあり方の表現として選んだのは北の海である。それも荒れ狂う北大西洋の海で命がけで漁をする「北転船」である。漁作業の描写がリアルなところを見ると、多分作者はその船にも同行取材したのだろう。相変わらず凄い人である。アイルランドを車で旅するのが好きと聞き、やってみた私などは今度は北転船に乗り込まねばならない。これはなかなか大変である。 その北の荒れた海で母から届いた大量の手紙を読む息子。恐ろしく影の薄い父親。何となく日本の家族を暗示しているようである。子供の頃から父親の言葉というのがまるで無く、母親の言葉ばかりが過剰だった私などは、淡々とした語り口調と相まって読み進めるのは難儀をした。そういえば、文中松田という漁船員と一彰とのやりとりは、今のこの国に父親が存在できない理由のような気もする。だからこの物語は父親の言葉を語り継げない家族、ひいてはこの国への鎮魂歌なのかも知れない。 いろいろと理屈を捏ねたが、いずれにせよこの本は高村薫にとっての新たな挑戦の始まりである。これからもずっとよい作品が書けますよう、陰ながら応援しています。 | |
バケツひとつでアジア旅 オーシロカズミ、情報センター出版局 | |
私が最近よく旅に出るようになったのは、沢木耕太郎の「深夜特急」ではなく、また本多勝一の「ニューギニア高地人」でもなく、はたまた椎名誠の「インドでわしも考えた」でもない(誤解のないように言っておくが、これらはどれも私のお気に入りの本である)。オーシロカズミさんのこの本がきっかけである。 しかしながら一読すれば、上の三氏も納得されることであろう。それほどまでにこの本は素晴らしいのだ。細かい内容について語るのも野暮なので割愛するが、「日本一ゴムぞうりが似合う女」というキャッチコピーは伊達ではない。旅先で出会った喜怒哀楽が楽しいイラストとともに詰まっており、何度でも読み返したくなること請け合いである。 いつか旅先でオーシロさんに出会ってみたい・・・ | |
終戦のローレライ 福井 敏晴、講談社 | |
怪しげな機械装置に乗り込むドイツ人少女というと昔話題になったあるアニメを思い出すが、コレは紛れもない史実である第二次世界大戦にまつわる物語である。第二次大戦というと柘植久慶みたいな戦記ものを想像するが、本作を一読して感じた印象は、まぎれもない「海洋ジュブナイル小説」だった。子供の頃見たアニメの「海のトリトン」みたいな。 生きることと死ぬことに対して、今よりも遥かに真摯に向き合わなければならなかった時代。にも関わらず、その時間は十分には与えられなかった時代。そういう重い時代を背景にし、散々凄惨な場面に出くわしたにもかかわらず、この爽やかな読後感は一体何なのだろう。 それがパウラと往人に託された希望のためだというなら、時代背景云々に関わらず、結局希望というのは極めて個人的なものなのだろう、と思う。世の中のあり様がどうであっても、生死の問題を避けて通れないのは人という生き物の宿命だ。だから、俺は手に入れたい。自分にとっての「ローレライ」を。 | |
生命と地球の歴史 丸山 茂徳・磯崎 行雄、岩波新書 | |
地学の授業でプレートテクトニクス(大陸移動説)について学んだ人も多いと思う。地球の表面を構成する地殻は、いくつかのプレートという単位に分かれて運動しており、ちょうどベルトコンベアのように地球内部から生まれて、また地球内部に沈み込んでいる。そしてこの運動によって大陸が移動するというものだ。 だがこの理論では地球表面のプレートの動きは説明出来ていたが、その下にあるマントルとの相互作用についてはほとんどわかっていなかった。筆者らが提唱したプルームテクトニクスという理論はその謎を説明するものである。 これによれば地表に出て冷えたプレートが海底に沈みこみ、塊となって地球中心の核に向かって崩落、逆にこれが核により暖められプルームとして地表に湧昇し、新しいプレートが形成されるらしい。理屈だけでなく観測データともきれいな調和が取れており、一見して「へぇ」と思わせるものがある この他にも海洋生物種の96%が絶滅したというP/T境界事変を含む五大絶滅事件、想像を絶するほどの大規模火山活動、赤道の海まで凍りついたという全球凍結事件、そしてこれらの地学的イベントに翻弄されながら進化を続けてきた生命の歴史など、どのトピックをとってもコーフンと驚きの連続である。 2億5千万年前、地球は一つの超大陸パンゲアと、一つの超海洋パンサラサにより構成されていた。そして今から2.5億年ほど経過すると太平洋はほぼ消滅し、オーストラリア、アメリカ大陸がアジア大陸と一体化、超大陸「アメイジア」が出来上がるという。人間の歴史など取るに足りないスケールの話だが、出来ることならそういうスケールの時間と今の自分の時間を繋がったものとして感じていたい。 | |
センス・オブ・ワンダー レイチェル・カーソン、新潮社 | |
カガクが嫌いな子供が増えているという。地球が丸いことを知らない子供が6割だ7割だと世間じゃ大騒ぎしているが、知らないことは知ればいい。悲しいのは知りたいと感じる心をなくすことだとワタシは思う。だから知らないことよりキライと言われることが、ワタシは悲しい。 レイチェル・カーソンは、科学を愛する作家であり、同時に文学を愛する生物科学者であった。科学というとお堅いイメージを持ってしまう人は、この本をぜひ読んで欲しい。そして感じて欲しい、科学というのは机にかじりついて知識を詰め込むことじゃなく、自然の中で不思議なことに眼を瞠り、そのなぞを知りたいと感じる心だということを。 (同じ著者の「われらをめぐる海(ハヤカワ文庫)」もオススメです) | |
テレヴィジオン ジャック・マリ・ラカン、青土社 | |
いしいひさいちをして「ラカンはワカラン」と苦し紛れのダジャレを言わせしめる(*1)ほど難解で知られるジャック・ラカンは、フランスのフロイト派精神分析学者です。 ラカン心理学の特徴といえば、『フロイトに還れ』を旗印に自我、無意識といった概念をソシュールの言語理論などを用いて、より構造化された心的エネルギー理論に展開したことです。とかく何でも性リピドーを持ち出すフロイト心理学に辟易していた人には、眼からウロコといった感があるかも知れません。 この本はそのラカンのテレビ講演を書きとめたものです。彼の話す言葉はフランス語的に韻を踏んでいることが多く、読解は困難を極めます。それでも我々が持てあます「自我」といったものをシュールといってもいい言葉で表現した文章は何とも言えず魅力的です。 なおこの本の帯には「ラカン学入門」と書いてありますが、正直いってコレは入門書としては不適当です。入門というか、解説書としては「ラカンの精神分析」(新宮一成、講談社現代新書)がオススメです。にも関わらず、惹かれるようにして本書を手にしてしまった人は、折角の出会いです。グラス片手にちょっとハードな「真夜中のテレヴィジオン」といきましょう。 *1 「現代思想の遭難者たち」、いしいひさいち、講談社 | |
港湾(シッピング)ニュース E.アニー・プルー、集英社 | |
港湾ニュースというのは、港の動静を記した小さなコラム記事のことだ。地方紙の片隅で「○○丸9時入港、第3埠頭、シンガポール」といったように、港に着く船、出る船の様子を地味にしっかり伝えている。子供の頃、神戸新聞で目にしたような記憶があるのだが、今もあるのだろうか。 少年にとっては見知らぬ土地への憧れを掻き立てる港湾ニュースも、書き手にとっては大事な生活の糧だ。失意の果てに親父の故郷、ニューファンドランドで娘達と暮らすことになった平凡な男、それがここでの書き手。そのつつましくも優しい暮らしを、彼の書く記事と同様、淡々と描く。地味な文章の中にも北国の厳しい自然と、時折垣間見えるスタンド・バイ・ミー的なおどろおどろしさと黒いユーモアが、読み手を独自の世界に引き込んで飽きさせない。 こういう物語を読むと、自分にもそんな暮らしがありえたのかも知れないと思ってしまうのは、自分にもヤキが回ってきた証拠か。 | |
一人の男が飛行機から飛び降りる バリー・ユアグロー、新潮社 | |
こないだ北海道の行き帰りの船中がヒマだったので、ひがな一日中読んでいたのがコレ。船内のあちこちでへたり込んではこの本を開き、一遍読んでは自分なりのタイトルをつけるということを繰り返していると、そのうち本を読んでいるのか眠って夢を見ているのかよくわからない状態になった。 メシの時間を告げる船内放送に起こされて我にかえると、一日じっとしていたにも関わらず、ナゼか妙に腹ペコだ。案内のままに階段を下りてレストランに行くと、牛がのんびりと草を食んでいる。さすが北海道の船だけあって、乗客にフレッシュミルクを飲ませるためかな。しかしそれにしては数が多いな。 席につくとウェイトレスがやって来て、コレを被ればステーキがタダになるといって牛の被り物を差し出す。周りを見回すと老若男女皆さん一人残らず牛の被り物をしておられる。しょうがないので、自分も同じように牛の被りものをしておとなしくステーキが出てくるのを待つことにする。何かヘンだ。 暫くすると料理が運ばれてきた、蓋をあけるとステーキではなく、サラダが大量に載っている。とりあえず腹ペコなので食ってみるとコレがイケル。あまりに美味いのでバクバク食う。土が混じっているのか、時々じゃりじゃりするのも気にならないぞ。カラにすると給仕がやってきて補給してくれる。手つきが乱暴だがこれも気にならないぞ。 腹イッパイになると下船時間になったらしく、さっさと車両甲板に降りると言われる。乗船時より船員の扱いが乱暴になったような気がする。そういえば、クルマの形もちょっと変わったような気がする。緑色になって背が高くなって、幌がついて、あれでもオレのクルマこんな開放的だったかなあ。 運転席に入ろうとすると乱暴に塞き止められ、荷台に押し込まれる。何だ何だこの扱いは。船員に抗議しようとするが、どうがんばっても思考は言葉にならず、喉から出てくるのは辺りを響かす重低音のみ。「モ〜、モ〜、モ〜」。 | |
素数に憑かれた人たち ジョン・ダービーシャー、日経BP社 | |
自然数nに対してそれより小さい素数はいくつあるかを表す関数を素数個数関数という。大きな数になればなるほど、それまでの数の倍数になる確率が増えるので、数が増えるにつれて素数の割合は減るだろうなとは思う。凡人の反応ははそこまでだが、かのガウスは百万にちかいところまで手計算で数え、法則性を発見した。それが素数定理である。 ガウスが発見した素数定理には実際の素数個数との間に誤差があった。その誤差を天才のひらめきと華麗な数学テクニックで解決し、関数の形で表したものがリーマンの素数公式である。本書はそのリーマンの素数公式を導出する過程を、多くの数学者の苦闘とともに、数学的に丹念に追う。素数の数という、「数えてみないとわからない」と思い込んでいた数を、関数で表すことができると知って驚く。 リーマンの素数公式は、ゼータ関数という聞きなれぬ関数の零点を用いて表される。この関数の挙動は極めて複雑だが、零点の値の分布にはどうやら法則性があるらしいことがリーマンによって予想された。リーマン自身は素数公式を導出することにのみ興味があったので、この予想の証明は後世に残され、現在リーマン予想として数学における最大の未解決問題の一つとなっている。 リーマン予想が正しいことが証明されると、素数に関する研究が大きく進展することが期待されている。更には数学の枠を超え、原子核のエネルギー準位間の間隔が、ゼータ関数と深い関わりがあるという予想も示唆されている。素数の個数という「いかにも数学」な数が、原子核のエネルギー準位という「いかにも物理」な数と関わっているという所が興味を引く かつてガリレオが発見した放物線がニュートンによる重力の発見に結びついたように、我々は未知なる真理の縁にいるのかも知れない。 | |
宇宙を復号する チャールズ・サイフェ、早川書房 | |
ビットという言葉を、近頃は小学生でも知っている。もともとは米国のシャノンという通信工学者が、一本の電線にどれくらいの電話回線が多重出来るかという問題に答えを出そうとして導入した単位である。電話回線でやりとりされる音声信号は結局のところ情報であり、情報の本質はその予測不可能性にあることに気づいたシャノンは、信号のとりうる状態の数とその確率を使って、情報量を定義した(*1)。ノイマンに唆されたシャノンは、この量にエントロピーというアグレッシブな名前を付けた。第二次世界大戦が終わって間もない頃である。
 エントロピーという言葉は、もともと熱力学で、湯が冷めるといった非可逆変化を表現するために導入された物理量である。この量はボルツマンによって熱を運ぶ原子分子のとりうる状態の数を用いて理論的に表されることが示された。これによると、物質の非可逆変化というのは、原子分子のとりうる状態の数が増えて、その予測不可能性が増加することに対応している。確かに、お湯の熱が空気に触れて拡散していくと、湯呑みの中に留まっている状態に比べて、原子分子がとりうる位置という状態の数は増え、それを予測することは困難になるだろう。
これら2種類のエントロピーが似ているのは偶然ではないと筆者は言う。つまり熱力学の理論と情報理論は基本的な仕組みが同じなのだ。実際ボルツマンの考えに基づく熱力学は、統計力学という、情報科学と物理学を足して二で割ったようなネーミングを与えられて発展し続けている。これだけでも興味深い事実だが、物理と情報の親密な関係はエントロピーだけにとどまらない。相対論による光速の制限は、情報の移動速度に対する制限であること。また量子論で問題となるモノの状態の決定は、他のモノとの間で情報が移転された場合に起こること。こうしてみると、物理学というのは物の振る舞いというよりは、情報の振る舞いについて記述する学問なのではないかとさえ思えてくる。
量子論における情報の振る舞いを探求していくと、多数の並行宇宙が、ERPチャンネルという人智を超えた物質間の相互作用を通じて繋がっているという、多世界宇宙解釈に必然的に行き着いてしまうらしい。そういえば、あのニュートン以来、物理学の基本中の基本の位置を占めている重力でさえ、エントロピーに起源をもつ見せかけの力に過ぎないという見方もある。インターネットをはじめとする近年の情報技術の進展によって、我々は情報についてちょっと詳しくなったつもりでいるが、それは大きな誤解なのかも知れない。情報について理解することは、宇宙について理解することなのだ。
*1 シャノンの情報量を表す式は対数を使って表されており、その底が2の場合をビット、10の場合をディット、ネイピア数の場合をナットという。
2011.7.18 | |
不機嫌な太陽H.スベンスマルク、N.コールター、恒星社厚生閣 | |
これほど読んで納得する科学ノンフィクション本は久しぶりだ。特に後半、実験や観測事実をもとに、銀河系の構造と地球気候の関連性について壮大なビジョンが展開されるあたりは感動すらおぼえる。まさにコペルニクス的転回。著者が展開する宇宙気候学は、今後間違いなく気候変動の基礎理論として定着していくことだろう。以下内容を簡単に紹介する
中世の温暖期とか、マウンダー極小期とか、地球の気温は時代によって暖かくなったり寒くなったりを繰り返している。なぜだろうか。本書の著者スベンスマルクは雲、とりわけ高度三千メートル以下の低層雲が地球を冷却する効果に着目した。雲の発生・消滅は一見気まぐれで全く無作為なように思えるが、長い目で見たとき、地表が雲で覆われる率が高くなるほど気温は下がるだろう。ではこのような長期的な観点でみたときの雲の発生に影響を与える因子は何だろうか。
宇宙線が過飽和気体中を通過する際、周囲の蒸気を凝結させて雲を作る。この様子は霧箱というごく一般的な実験装置で確認することができるが、大気中でもこのような過程が一般的に起こっているかも知れない。人工衛星の観測データを解析し、雲量と宇宙線量の関係を調べてみたところ、両者の変動は高い相関を示していた。著者らは直ちにこれを学会で発表した。
更にその論文を読んだイスラエルのシャヴィブらは、古気候学的な手法を用いて過去数億年にわたる気温と宇宙線の相関を明らかにし、その変動パターンから驚くべき考察を得た(*1)。宇宙線の変動は銀河系の腕構造を太陽系が移動する際に通過する星間物質密度と相関しているというのだ。つまり銀河系の構造と地球気候が相関しているというのである。この事実は、気候変動が生物の進化を促してきたという考え方に基づけば、銀河構造の進化と生物進化という、更に驚くべき関係性を示唆している。
最新の観測によれば、太陽の磁場活動の低下などにより、地表に到達する宇宙線の量が増加しているらしい。本書に従えば、これは地球の寒冷化を示唆しており、各方面での対策が必要だろう。特に心配されるのは食料生産だ。1993年の米騒動からも明らかだが、ちょっとした寒冷化でも農業生産には深刻なダメージを与えることから、低温・低日射でも収量を確保可能な農法の開発を可及的速やかに進める必要がある。
*1 Nir J. Shariv,Jan Veizer,2003,Celestial driver of Phanerozoic climate?,GSA TODAY 2003/7,pp4-10
2014.2.11 |